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April 16, 2015
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真空管
このホームページは個人が集めた真空管関係の書籍を紹介するページです。
半導体全盛期の現在、真空管関係の資料はどんどん散逸しています。 将来真空管工学が再び見直される可能性があるかどうか分かりませんが、 技術発展の歴史を追う上での資料としては役に立つのではないか と考えています。 ここで紹介しているものは、当時、工学研究者や学生が 教科書として使ったと思われるものが主です。現在、大学で教えられる半導体工学が 必ずしも最先端のものでは無いと同様、当時も、時間差があるようです。 収集してあるのは主に1950年以前に日本で発行された書籍です。(06/2002)

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真空管から半導体への移行が明らかになった1970年代以降、 真空管の開発史をまとめた書籍が刊行されています。
真空管の開発史
にその内の何冊かを紹介しています。

また、このトップページの下方には真空管が発明された経過、日本での発展の過程等を簡単に説明してあります。

真空管の歴史

真空管は20世紀初頭に発明され、電話や放送の普及を通して 人々の生活を大きく変えた。しかし1960年代に登場した トランジスタによりその役割を終え、現在では失われつつある 技術となっている。これほど大きな影響を与えた技術が わずか50年ですたれ、忘れ去られていくのは感慨深いものがある。 現在半導体工場に巨額の投資をしている君たち! 大丈夫ですか?(06/2002)

エジソン効果

真空管に直接関係のある最初の発見は明治16年(1883年) のエジソン効果である。エジソンは自分が発明した 白熱電球の改良のための実験中、電球内に金属板を封入 し、フィラメントの正電位側の端子と金属板を接続すると 金属板よりフィラメントに微小な電流が流れるが、 フィラメントの負電位側に接続すると電流が流れないことを 発見した。英国のフレミングはこの現象を解析し、その原理を 1890年に論文として発表している。 さらに 重要なことは、この時点で二極管の整流作用に気がついてい たことである。(06/2002)

2極管

フレミング管 フレミングはいろいろな方面の研究をしていて、マルコニーが 大西洋横断通信に使った送信機も彼が設計した。この通信システムの 最大の問題点は検波器であると考えたフレミングは、エジソン効果を 検波に使えないかと考えた。 彼は実験を行い、高周波信号が2極管により直流に変換され、検波器として 動作することを確認した。明治37年(1904年)には特許を得ている。 2極管による検波というアイデアは革命的なものであったが、実際に使わ れることは少なかった。というのも、それから2年もたたないうちに半導体検波器 の祖先ともいえる点接触検波器が開発され、2極管に比べ安価でまた使いや すかったため、瞬く間に広がり2極管の出番はなくなってしまったからである。 2極管は整流器として使われていくことになる。 しかし、このフレミング管が後の三極管や多極管を生み出すことになる。(06/2002)
<参照>
chem.ch.huji.ac.il/~eugeniik/history/fleming.htm

3極管

三極オートダイン 明治40年(1907年)ド・フォーレは三極管を考案した。 彼は、フレミングの特許を避けるため、第二の電極を追加しオーディオンと称 したのである。つまり、第二の電極は特許を逃れるため以外の何者でもなかった。 したがってオーディオンは検波器として使われ、増幅作用が発見されたのは それから4年が経てからであった。ド・フォーレは三極管の動作において管内の 残留ガスが重要な働きをしていると主張しており、動作原理を理解していなかっ たと考えられている。この残留ガスのためド・フォーレの三極管は非常に 不安定であり、実用には問題が多かった。 しかし、三極管は増幅作用などの極めて便利な性質を持っていたため、多くの研究者 により改良が進められ、電気通信技術に革命をもたらすことになった。(06/2002)
<参照>
www.pbs.org/wgbh/aso/databank/entries/btfore.html

日本における真空管

マルコニーによる大西洋横断無線電信成功の1年前、明治33年(1900)日本海軍は軍艦間 の通信実験を行い、無線通信設備の採用を決めた。 明治38年(1905)の日本海海戦での勝利が、 無線通信という情報戦による勝利であることを認識した海軍はさらに無線技術の開発に力を注ぎ、 重要部品である真空管開発をリードしていった。
大正3年(1914)にはじまった第一次世界大戦は真空管技術を飛躍的に発展させると共に、 欧米への輸出を通して日本の経済を急拡大させた。この年(1914)米国GE社はラングミュア特許を 日本に出願し翌年(1915)に成立、日本での専用実施権者は東京電気(現在の東芝)であった。 日本における真空管の試作は大正6年(1917)前後からはじまっており、電気試験所、海軍造兵廠、 東京電気、日本無線等が試作に成功している。海軍は早くも大正8年(1919)に真空管の研究試作を 民間に移す方針を決め、相手に東京電気を選んだ。このような経緯から新型の真空管はいずれも海軍 からの要請によって開発され、大出力送信機用真空管の開発が進められた。
大正14年(1925)にラジオ放送がはじまり、民需用の開発も進められたが、量産が立ち上がるのは ラングミュア特許が消滅し各社が真空管製造に参入した昭和10年(1935)以降である。
日本で特に発達した真空管にマグネトロンがある。太平洋戦争終戦時には波長10cmで出力10kWという 世界最大のマグネトロンを完成していた。昭和11年(1936)にはマグネトロンの発生する極超短波で 敵機発見の兵器開発が可能との提案があったが、かっては新進気鋭であった海軍は、電波の発射は 自分の所在を暴露するものだとして開発着手をみとめなかった。
昭和16年(1941年)太平洋戦争に突入、ミッドウエイ海戦で日本海軍は主力空母を4隻失いまた その他の艦艇にも大きな被害を受けたが、残念なことにこの作戦にレーダを装備した艦艇は一隻も 参加していなかった。レーダを装備した艦艇が参加していたら勝敗は逆転していたはずだとも 言われている。
戦争末期に真空管の生産は大きく落ち込んだが、戦後5年たった昭和25年(1950)には戦前の生産数量 を回復し年間およそ1000万本の受信管が生産された。
昭和27年(1952)に平和条約が発効し日本が独立を回復すると、欧米からの技術導入が急速に進んだ。 戦後の技術導入は米国と同様独占禁止法、集中排除法が厳密に適用され、従来の一社と一社の間の 独占的なものから一社の特許に対し複数の会社が実施権を得られる形態になった。たとえば戦前に 東京電気へ特許の独占実施権を許諾していた米国RCA社は戦後各社との間に多くの契約を締結した。
生産数量 この結果真空管の製造会社は100社以上にもなり増産を進めた。昭和25年(1950)から昭和35年(1960) までの10年間で生産数が約20倍になり、昭和35年には年間2億本の生産が行われ、対米輸出も盛んになった。 この後昭和45年(1970)までの10年間にわたり毎年2億本の真空管の生産が続けられ貿易摩擦も起こっている。 日本における真空管の生産は昭和45年(1970)がピークで、以降生産は急激に減少し、昭和55年には 受信管の生産量はほぼゼロとなった。(07/2002)
<参照>
  電子管の歴史 日本電子機械工業会 オーム社

日本における真空管関係書籍

日本における真空管関係書籍としては大正12年(1923)発行の藤村信次著「熱電子管」が初期のものである。 その後はラングミュア特許がきれ、多くの企業が真空管製造に参入した昭和10年前後から多く発行される ようになる。

ここでは主に戦前の書籍を紹介しているが、戦後の書籍についても若干紹介している。 戦後の書籍は、昭和32年に発行された浜田成徳の電子管工学が昭和54年にも29版として発行されているよう に若干回数の改訂を行いながらも同じものが延々と売り続けられるという傾向にある。(07/2002)

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